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アプレシエイト

第1話 「ありがとう」を言えなくなった男。
『ありがとう』

 それは感謝の意を表し、自分も相手も心地良くなる言葉だと思う。大輔は、その言葉が大好きだった。色んな人と繋がれる気がしたから。あたたかい言葉のような気がしたから。彼は、幼い頃からその一言を大切にして生きてきた。両親にもそうするように言われてきた。だから、大輔はこの言葉を何よりの宝物のようにして生きてきた。

 そんなものが突如、失われてしまったらどうする?

 大輔は、その言葉が言えなくなってしまった。この「物資も貴重な世の中」でだ。それに気付いたのは、娘が生前大切にしていたクマのぬいぐるみがこつぜんと姿を消してしまった時だった。さっきまで目の端に確認出来ていたものが「ありがとう」と仲間に言った時、突然にだ。
 最初は何かの冗談かと思った。だが、大輔が何か礼をする度に彼の大切にしているものから消えていく。ものは当然、人、その人がいたという証拠まで音沙汰もなく消えていく。

 大輔は絶句した。

 なぜなら大輔の口癖は「ありがとう」だったから。最初は言葉を変えてみたりした。しかし、それも意味がない。だったら、それを言わないようにしたらいい。だが、それは彼にとって負担ストレスが大きすぎたのだ。やがて、大輔は物言わぬ木偶になってしまった。この「ものが必要最低限以下しかない世界」でものが一つでもなくなるというのは命取りだからだ。
 何日も外に出ていない。雨の降っている窓の外を一瞥し、唯一残った写真を見つめる。もう、これだけが大輔の生きがいだった。なんてことのないどこにでもありそうな家族写真だった。
 いくら話さないと決めていても、大輔はもっと積極的にコミュニケーションをとるような人柄だったから、人と会話をしないと心が荒んでくる。何日人に会っていないだろう。日数を考えるのをやめたのはいつ頃からだろう。そんなことを放心状態で止まったままの頭で考え、「いや、そんなこと考えるだけ無駄だ」と目を伏せる。

 ――あの頃は幸せだったのに。どうしてこうなってしまったのだろうか。

 ある日、天変地異が起きた。一番近くにある星々を焼き尽くし、太陽が地球と接触したのだ。普通の教育を受けていたらありえない話と一蹴するだろう。だが「有り得てしまった」話だ。奇跡的に太陽が接触した国とは反対側に位置していた日本は焼かれずに済んだが、世界中が大混乱に陥り、流通はストップし、この世界を牛耳っていた政治家たちは民衆を置いて、一般の民衆が知らないような安全な場所に逃げてしまった。
 世界を揺るがす未曾有みぞうの大規模な災害を前に、先陣を切って指示を出す人間も新たなる統治者も出てくる訳がなく、やがて底尽きそうになっている物資を取り合う戦争が起き始めた。

 そこに大輔の奇病だった。

 まず、創作話のような病気の話を信じてくれる人物がいるかどうかは不明だが、こんな病気が世に知れてしまったら、自分の身がどうなるか、保証されなくなってしまう。「まだ死にたくない」と人間としての本能がそう言っている。家族も友人も何もかも失ってしまったのに、何を今更、と自分でも思う。だが、怖いのだ、死ぬという選択を取ることが。
 疲れ切った体を椅子の背もたれに預け、天井を見上げて大きくため息を吐く。

 こんな状況でも、食糧は取りに行かねば。こんな大雨の中でも今日の物資を配り始めた男性の声が聞こえ、重い腰を上げて食糧を取りに行こうとした時だった。簡易的な小屋のドアがノックされる。今やこの家に誰かが来るのは珍しい。グッと息を呑んでのろのろとドアを開けると、若い女性が立っていた。娘が生きていたら、このくらいの年齢か、そう思い少し複雑な気分になる。

「……何か?」

 やけに希望に満ちたつぶらな瞳をした雨がっぱの女性の目に目を細める。皆が死んだような目をして生きるこのご時世に珍しい目だった。

「あなたの奇病、治しにきました!」

 元気にそう言う彼女の言葉に、大輔の口から漏れた言葉は「は?」の一言だった。
第2話 「ありがとう」を取り戻したい女
投稿者: さんぽ
唐突すぎる言葉に、大輔の頭は追いつかなかった。
 外の雨音が、まるで嘘のように遠のいていく。

「……何の冗談だ」

 掠れた声が漏れた。
 しかし、目の前の女性は微笑を崩さなかった。

 彼女は年のころ、二十代前半に見えた。
 肩までの黒髪は雨でしっとりと濡れ、滴が顎を伝ってコートに落ちる。
 だが、その瞳には、危機的状況となったこの世界には似つかわしくない「希望」の色があった。

「あなた、奇病で『ありがとう』が言えないんですよね?」

 どうして知っている?
 そう問おうとして、大輔は咄嗟に口をつぐんだ。
 言葉を発するだけで、何かが消えてしまうかもしれない。
 心のどこかで「彼女に何かあったら」と、もう怯えてしまっていた。

「……うなずいてください。はい、そうですね」

 女性は勝手に会話を進める。だがその口調には苛立ちがなかった。
 まるで、彼の事情をすべて知っているかのようだった。

「でも大丈夫。私なら、あなたの『ありがとう』を失わせない」

 意味がわからなかった。
 だが、それ以上に不思議だったのは、彼女の放つ言葉が、胸の奥にじんわりと染みてくる感覚だった。

「治療には少し時間がかかります。けど……もしよかったら、私と少しだけ話しませんか?」

 「話す」? 冗談じゃない。
 たった一言の「ありがとう」で、自分の娘のぬいぐるみが消えたのだ。
 それ以降も、家族の手紙、妻との写真、友の遺した日記が、消えていった。
 次に話せば、きっと――

 「ねえ、言葉って、何のためにあると思いますか?」

 彼女が、まっすぐな目で尋ねた。

 「私はね、誰かの心を渡すためにあるって、ずっと思ってるんです。たとえば『ありがとう』って言葉は、あなたの温かさを誰かに渡す橋なんです。大切なのはものじゃなくて、そこに込められた気持ち。そう思いませんか?」

 彼女の声は、まるで小さな灯火のようだった。
 吹き荒れる嵐の中でも、消えることのない火。

 大輔は思った。

 ――この女は、どれだけ多くの人に、そう語ってきたのだろう?

 彼女は腰のポーチから、小さな装置のようなものを取り出した。
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