最後の物語
制作者:
レュー
小説設定:
|
連続投稿: 可
|
投稿権限:
全員
|
完結数: 5話で完結
概要
閉店が決まった老舗の貸本屋&喫茶店「物語亭」。常連たちが「最後にみんなで一つの物語を作ろう」と集まる一週間。賑やかな騒動の裏で、店主が黙って抱えていた本当の理由は
第一話 閉店セールは戦争です
その貼り紙を見つけたとき、高瀬ひなたは右手に持っていたメロンソーダを取り落としそうになった。
「物語亭 六月末日をもちまして閉店いたします 長らくのご愛顧ありがとうございました」
筆文字の、やたら達筆な一枚。ガラス戸の内側にぺたりと貼られていて、午後の陽射しを受けて少しだけ反り返っている。
「……は?」
ひなたは硝子に額をくっつけるようにして、もう一度読んだ。読み間違いではなかった。閉店。へいてん。あの、世界一どうでもいいことを世界一もったいぶって喋る店主のいる、この店が。
ガラリと戸を開ける。からん、と頭上のベルが鳴る。古い紙とコーヒーの匂いが、いつもどおり鼻先まで押し寄せてくる。壁という壁に作りつけられた本棚。背表紙の褪せた文庫、貸出カードの差さった単行本、年代物の絵本。カウンターの奥では、白髪を几帳面に撫でつけた老人が、湯気の立つサイフォンをじっと見つめていた。
「源蔵さん! なにあれ、なにあれあの貼り紙!」
結城源蔵は顔を上げると、しわの寄った目元をほんの少しだけ細めた。
「ああ。閉店だよ」
「ああ、じゃないですよ! なんで! いつから決まってたんですか!」
「先週の火曜あたりだったかな」
「先週っ!?」
ひなたはカウンターに両手をついて身を乗り出した。バイトのシフトに入って一年と少し。週三日、夕方からこの店に通ってきた。客はまばらで、儲かっているとは口が裂けても言えないけれど、それでも――それでも、潰れるなんて。
「絶対だめです。あたし、絶対に潰させませんから」
「はあ」
「『はあ』じゃない!」
源蔵は湯の落ちきったサイフォンを布巾でくるみ、淹れたてのコーヒーを一つ、ひなたの前に静かに置いた。注文してもいないのに。香りだけで、それがいつもより少しだけ上等な豆なのが分かった。
「飲みなさい。喉、渇いてるだろう」
その穏やかさが、かえってひなたを焦らせた。
***
その夜、ひなたは自分の部屋でスマートフォンを握りしめていた。
「こうなったら……拡散だ」
思いつめた顔で、店の外観の写真を一枚、アップする。看板猫のトンが店先で丸くなっている、いつか撮ったやつだ。指が震えながら文章を打つ。
『助けてください。わたしの大好きな貸本喫茶『物語亭』が、今月末で閉店します。本を借りられて、コーヒーが飲めて、おじいちゃん店主のいる、こんな店、もう二度と出会えません。最後にどうか、一度でいいから来てください。#閉店させたくない #物語亭』
投稿ボタンを押す。これでいい。たぶん、数人の友達がいいねを押してくれる。それで気が済む。そう思って、ひなたはスマホを枕元に置いて、目を閉じた。
翌朝、画面を見て、彼女は飛び起きた。
リポスト、四万八千。
***
「な――なんですかこれぇぇ!」
開店前の物語亭。ひなたはスマホを掲げて店内を駆け回っていた。どこをどう伝わったのか、誰かの誰かのそのまた誰かが拾い上げ、「滅びゆく文化を守れ」だの「エモすぎる」だの、知らない人たちの言葉が雪崩のように積み重なっていた。
「源蔵さん大変です、バズりました、バズっちゃいました!」
「ばず?」
「拡散です拡散! すごいいっぱい人が来ます、たぶん今日!」
源蔵はカウンターの内側で、いつものようにカップを磨きながら、少しだけ眉を上げた。
「ふむ。豆が足りるかな」
その悠長さに、ひなたが何か言い返すより早く、からんとベルが鳴った。
戸口に、見知らぬ若い女が二人。それから親子連れ。スーツの男。カメラを下げた人。次々と、人が、人が。あっという間に、十人ばかりの客が狭い店内にひしめき合っていた。
「あの、すみません、コーヒーって今いけますか」
「写真撮ってもいいですか?」
「貸本ってどうやって借りるんですか?」
「猫ちゃんはどこ……!」
声、声、声。ひなたの頭は真っ白になった。一年通って、こんなに人の入った物語亭を見るのは初めてだった。
「ど、どうしよう源蔵さん、注文が、注文がいっぱい――」
そのときだった。
「おい、そこのバイト。突っ立ってないで水を配れ」
聞き慣れた、皮肉まじりの低い声。窓際の指定席から、よれたジャケットの中年男がのそりと立ち上がった。黒田。週に四日はここで本を読みながらコーヒー一杯で粘る、売れない――というか、ほぼ書いていない元小説家だ。
「く、黒田さん! でも、あたしどうしたら」
「どうもこうもあるか。客がいる、席が足りない、注文がさばけない。やることなんざ決まってるだろう」
黒田は袖をまくり上げると、入り口の客に向かって張りのある声を放った。
「いらっしゃい。お二人さんはそこの相席で。本を借りたい方はカウンター左手、撮影は他のお客さんの顔を入れないこと。コーヒーは順番に出すから、慌てなさんな」
ぴしゃりと通った仕切りに、ざわついていた店内の空気が、すっと一本の流れになった。ひなたは思わず黒田を二度見した。
「黒田さん……接客、できたんですか」
「学生のころ喫茶でバイトしてた。二十年以上前の話だ。それより手を動かせ」
「は、はいっ!」
***
それから昼すぎまでは、嵐のような時間だった。
源蔵が一杯ずつ、決して急がず、それでいて澱みなくコーヒーを淹れていく。黒田が客を捌き、席を回し、ひなたが水とおしぼりを運んで走り回る。注文を取り違えて謝り、お釣りを間違えて謝り、それでも客たちはみんな、どこか楽しそうだった。古い本棚を見上げて「うわ、懐かしい」と声をあげる人。差し込まれた貸出カードを珍しそうに引き抜く人。
途中、足元をすり抜けていったトンが、なぜか一番奥の本棚の前にちょこんと座り、客の一人に撫でられて満足げに目を細めていた。
ようやく波が引いたのは、午後二時を回ったころだった。最後の客を見送って、ひなたはカウンターの椅子にへたり込んだ。
「し……死ぬかと思った……」
「ふん。たかだか五十人ぽっちで何を言う」
黒田が、自分のぶんのコーヒーをようやく一口すすった。とっくに冷めているはずなのに、文句は言わなかった。
「でも黒田さん、すごかったです。あたし、黒田さんがあんなに……その、ちゃんとした人だったなんて」
「ちゃんとした、は余計だ」
口ではそう言いながら、黒田は満更でもなさそうに窓の外へ目をやった。
ひなたは、湯気の引いたカップの底に残ったコーヒーを見つめながら、ふいに胸が熱くなるのを感じた。たった一日。たった一日でこれだけの人が、この店のために来てくれた。
「ねえ源蔵さん。これ、続けたらどうですか。SNSもっと頑張って、お客さんいっぱい呼んで……そしたら、閉店なんて――」
そこまで言って、ひなたは言葉を止めた。
源蔵が、カウンターの内側で笑っていた。今日一日、あんなに混み合った店の中で、ずっとそうしていたように。ありがたい、とも、困った、とも違う。どこか遠くを見るような、静かで、おだやかすぎる笑み。
まるで、この賑わいの先にあるものを、もうとっくに知っているみたいな。
「いい一日だったね」と源蔵は言った。「久しぶりに、店が笑ってた」
その言葉が、なぜだか、ひなたの胸の奥にちくりと小さな棘を残した。
外では、夕暮れの光がガラス戸の貼り紙を、また少しだけ反り返らせていた。
その貼り紙を見つけたとき、高瀬ひなたは右手に持っていたメロンソーダを取り落としそうになった。
「物語亭 六月末日をもちまして閉店いたします 長らくのご愛顧ありがとうございました」
筆文字の、やたら達筆な一枚。ガラス戸の内側にぺたりと貼られていて、午後の陽射しを受けて少しだけ反り返っている。
「……は?」
ひなたは硝子に額をくっつけるようにして、もう一度読んだ。読み間違いではなかった。閉店。へいてん。あの、世界一どうでもいいことを世界一もったいぶって喋る店主のいる、この店が。
ガラリと戸を開ける。からん、と頭上のベルが鳴る。古い紙とコーヒーの匂いが、いつもどおり鼻先まで押し寄せてくる。壁という壁に作りつけられた本棚。背表紙の褪せた文庫、貸出カードの差さった単行本、年代物の絵本。カウンターの奥では、白髪を几帳面に撫でつけた老人が、湯気の立つサイフォンをじっと見つめていた。
「源蔵さん! なにあれ、なにあれあの貼り紙!」
結城源蔵は顔を上げると、しわの寄った目元をほんの少しだけ細めた。
「ああ。閉店だよ」
「ああ、じゃないですよ! なんで! いつから決まってたんですか!」
「先週の火曜あたりだったかな」
「先週っ!?」
ひなたはカウンターに両手をついて身を乗り出した。バイトのシフトに入って一年と少し。週三日、夕方からこの店に通ってきた。客はまばらで、儲かっているとは口が裂けても言えないけれど、それでも――それでも、潰れるなんて。
「絶対だめです。あたし、絶対に潰させませんから」
「はあ」
「『はあ』じゃない!」
源蔵は湯の落ちきったサイフォンを布巾でくるみ、淹れたてのコーヒーを一つ、ひなたの前に静かに置いた。注文してもいないのに。香りだけで、それがいつもより少しだけ上等な豆なのが分かった。
「飲みなさい。喉、渇いてるだろう」
その穏やかさが、かえってひなたを焦らせた。
***
その夜、ひなたは自分の部屋でスマートフォンを握りしめていた。
「こうなったら……拡散だ」
思いつめた顔で、店の外観の写真を一枚、アップする。看板猫のトンが店先で丸くなっている、いつか撮ったやつだ。指が震えながら文章を打つ。
『助けてください。わたしの大好きな貸本喫茶『物語亭』が、今月末で閉店します。本を借りられて、コーヒーが飲めて、おじいちゃん店主のいる、こんな店、もう二度と出会えません。最後にどうか、一度でいいから来てください。#閉店させたくない #物語亭』
投稿ボタンを押す。これでいい。たぶん、数人の友達がいいねを押してくれる。それで気が済む。そう思って、ひなたはスマホを枕元に置いて、目を閉じた。
翌朝、画面を見て、彼女は飛び起きた。
リポスト、四万八千。
***
「な――なんですかこれぇぇ!」
開店前の物語亭。ひなたはスマホを掲げて店内を駆け回っていた。どこをどう伝わったのか、誰かの誰かのそのまた誰かが拾い上げ、「滅びゆく文化を守れ」だの「エモすぎる」だの、知らない人たちの言葉が雪崩のように積み重なっていた。
「源蔵さん大変です、バズりました、バズっちゃいました!」
「ばず?」
「拡散です拡散! すごいいっぱい人が来ます、たぶん今日!」
源蔵はカウンターの内側で、いつものようにカップを磨きながら、少しだけ眉を上げた。
「ふむ。豆が足りるかな」
その悠長さに、ひなたが何か言い返すより早く、からんとベルが鳴った。
戸口に、見知らぬ若い女が二人。それから親子連れ。スーツの男。カメラを下げた人。次々と、人が、人が。あっという間に、十人ばかりの客が狭い店内にひしめき合っていた。
「あの、すみません、コーヒーって今いけますか」
「写真撮ってもいいですか?」
「貸本ってどうやって借りるんですか?」
「猫ちゃんはどこ……!」
声、声、声。ひなたの頭は真っ白になった。一年通って、こんなに人の入った物語亭を見るのは初めてだった。
「ど、どうしよう源蔵さん、注文が、注文がいっぱい――」
そのときだった。
「おい、そこのバイト。突っ立ってないで水を配れ」
聞き慣れた、皮肉まじりの低い声。窓際の指定席から、よれたジャケットの中年男がのそりと立ち上がった。黒田。週に四日はここで本を読みながらコーヒー一杯で粘る、売れない――というか、ほぼ書いていない元小説家だ。
「く、黒田さん! でも、あたしどうしたら」
「どうもこうもあるか。客がいる、席が足りない、注文がさばけない。やることなんざ決まってるだろう」
黒田は袖をまくり上げると、入り口の客に向かって張りのある声を放った。
「いらっしゃい。お二人さんはそこの相席で。本を借りたい方はカウンター左手、撮影は他のお客さんの顔を入れないこと。コーヒーは順番に出すから、慌てなさんな」
ぴしゃりと通った仕切りに、ざわついていた店内の空気が、すっと一本の流れになった。ひなたは思わず黒田を二度見した。
「黒田さん……接客、できたんですか」
「学生のころ喫茶でバイトしてた。二十年以上前の話だ。それより手を動かせ」
「は、はいっ!」
***
それから昼すぎまでは、嵐のような時間だった。
源蔵が一杯ずつ、決して急がず、それでいて澱みなくコーヒーを淹れていく。黒田が客を捌き、席を回し、ひなたが水とおしぼりを運んで走り回る。注文を取り違えて謝り、お釣りを間違えて謝り、それでも客たちはみんな、どこか楽しそうだった。古い本棚を見上げて「うわ、懐かしい」と声をあげる人。差し込まれた貸出カードを珍しそうに引き抜く人。
途中、足元をすり抜けていったトンが、なぜか一番奥の本棚の前にちょこんと座り、客の一人に撫でられて満足げに目を細めていた。
ようやく波が引いたのは、午後二時を回ったころだった。最後の客を見送って、ひなたはカウンターの椅子にへたり込んだ。
「し……死ぬかと思った……」
「ふん。たかだか五十人ぽっちで何を言う」
黒田が、自分のぶんのコーヒーをようやく一口すすった。とっくに冷めているはずなのに、文句は言わなかった。
「でも黒田さん、すごかったです。あたし、黒田さんがあんなに……その、ちゃんとした人だったなんて」
「ちゃんとした、は余計だ」
口ではそう言いながら、黒田は満更でもなさそうに窓の外へ目をやった。
ひなたは、湯気の引いたカップの底に残ったコーヒーを見つめながら、ふいに胸が熱くなるのを感じた。たった一日。たった一日でこれだけの人が、この店のために来てくれた。
「ねえ源蔵さん。これ、続けたらどうですか。SNSもっと頑張って、お客さんいっぱい呼んで……そしたら、閉店なんて――」
そこまで言って、ひなたは言葉を止めた。
源蔵が、カウンターの内側で笑っていた。今日一日、あんなに混み合った店の中で、ずっとそうしていたように。ありがたい、とも、困った、とも違う。どこか遠くを見るような、静かで、おだやかすぎる笑み。
まるで、この賑わいの先にあるものを、もうとっくに知っているみたいな。
「いい一日だったね」と源蔵は言った。「久しぶりに、店が笑ってた」
その言葉が、なぜだか、ひなたの胸の奥にちくりと小さな棘を残した。
外では、夕暮れの光がガラス戸の貼り紙を、また少しだけ反り返らせていた。
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