読み込み中...

当世浮世百面相

第1話 万繰言 箱入知恵
日本橋の賑やかな往来。人々がみな、てのひらサイズの四角い「黒塗りの箱」を食い入るように見つめながら歩いている。前を見ていないので、ぶつかりそうになる者もいる。

近頃、江戸の町で妙なものが流行り出した。「知恵の箱」という。この箱、指で撫でればよろずの知識を答えてくれるという優れもの。 長屋の八五郎はちごろう、隠居の御隠居の家へ飛び込んでくる。

八五郎 「へへっ、御隠居! まだ書物ほんなんか読んでるんですかい。今はこれですよ、これ。『箱先生』でさあ!」

御隠居 「なんだ八、騒々しい。その硯箱すずりばこのようなものはなんだ?」

八五郎 「こいつは凄ぇんで。今日の天気から、隣のあまの好物、果ては将軍様の晩御飯まで、指先ひとつで教えてくれまさぁ」
第2話 箱先生、化けの皮を剥ぐ
投稿者: 冬至梅
御隠居は鼻を鳴らし、本を置いて腕を組んだ。

「ほーう、それほど賢い箱なら、わしが若い頃、神童と呼ばれたことも知っておろうな」

「へい、朝飯前でさぁ!」

 八五郎が人差し指で箱を撫でると、箱の面がぴかりと光る。

「ええと……『御隠居、若い頃』……おっと、出ましたぜ」

 その瞬間、八五郎の顔がにやりと歪んだ。

「おやおや……? 御隠居、こいつぁ神童どころか……。
 箱先生によりますと、昼は博打、夜は酒、明け方は女郎屋。学問は三日坊主、借金は年季明け。こりゃあ見事な道楽三昧で」

 御隠居はぴたりと固まった。

「……ま、待て八。それは人違いであろう」

「いえいえ、歳も住まいもぴったり。あ、ここに絵付きで出ていやす」

 御隠居は真っ赤になり、慌てて箱を取り上げようとするが、箱は無情にも続きを映す。

「おや? まだありやすぜ。『女房に内緒で質入れ』」

「もうよい! 見るなーっ!」

 こうして御隠居の威厳は地に落ち、程なくして長屋には笑い声が響いた。

***

 さて、江戸の町ではこのような合言葉が流行り出した。「知りたいことは箱に聞け」。今や、婿むこ探しも箱、病も箱、明日の天気も箱頼みである。

「この男は婿にいいかい?」
「箱先生によれば、笑顔は良いが金遣いが荒い」

「昨夜から咳が止まらねえ」
「箱先生いわく、三日で治るが酒は控えろ」

 もはや誰一人として人間の話を聞かず、箱の示すことを信じる始末である。
第3話 箱無くば人も無し
その日から、江戸の町は様変わりした。

朝、日が昇っても誰も「おはよう」と声をかけぬ。
隣の者に挨拶する前に、まず箱に問うのである。

「今日の挨拶は何と言えばよいか」
「箱先生いわく、『天気が良いですね』が最適」

魚屋の女房かみさんが魚を選ぶにも箱を見る。

「この鰹、新鮮かね?」
「待ちな。箱先生に聞いてみるから…ええと、『今朝の勝鬨橋かちどきばしの鰹、鮮度』っと」

「おいおい、目の前にあるんだから見りゃわかるだろう!」

魚屋の主人があきれても、女房は箱から目を離さない。

***

八五郎もすっかり箱の虜である。朝起きてから寝るまで、箱と睨めっこ。

御隠居が心配して声をかけた。

「八、最近おまえ、箱ばかり見ておらぬか。たまには人と話をせんと」

「へっ? 何か言いましたか、御隠居」

八五郎は箱を撫でながら生返事。

「…今、わしが何を言ったか覚えておるか?」

「ええと…箱先生、『御隠居が今言ったこと』…あ、出ましたぜ。『健康を気遣う言葉』だそうで」

「違う!わしは箱のことを…ああ、もうよい」

御隠居は溜息をついた。
小説TOPに戻る