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金銀の縁 〜信一郎再起譚〜

制作者: 冬至梅
第1話 日本橋、喪の暖簾
投稿者: 冬至梅
安永二年の晩冬、朝の市が引けきらぬ頃、日本橋の通りを二人の男が駆け抜けていく。人々は怪訝な顔でその背を見送った。

 一人は背丈ほどの荷を背負い慣れた体つきの若者で、名を十平次じゅうへいじという。もう一人はそれより幾分痩せているが、目の奥に強い光を宿した男。信一郎しんいちろう――かつて日本橋の豪商、仙石屋せんごくや久兵衛きゅうべえの跡取り息子だった。

 通りの先、ひときわ大きな店構えの前に、喪服を着た若い娘が立っていた。板看板には「仙石屋」と太く記されている。
 娘は駆け寄ってくる男の姿を見つけた途端、息を呑み、声を震わせた。

「……お兄ちゃん……!」

 信一郎は足を止めた。目の前に立つ妹・よしは、かつて別れた頃よりも幾分大人びている。だが、その瞳の奥にあるものは変わらないままだった。

ふみ、読んでくれたのね……。けど……戻ってきてくれるなんて、思ってなかった……」

 美はそう言うと、堪えていたものが決壊したように涙をこぼした。信一郎はしばし言葉を失い、やがて低く問うた。

「……親父は……本当に、獄で死んだのか」

 美は一瞬唇を噛みしめ、それから小さく、しかし確かに頷いた。

「奉行所から知らせがあったわ。病だって……そう言われた。でも……」

 それ以上、美は言葉を続けなかった。信一郎もまた、それ以上を聞くことはできなかった。

 その様子を少し離れて見ていた十平次が、ぽつりと声を上げる。

「……すごい店やな。ジブン、こないに金持ちやったんか。なんでワイなんぞと一緒にイワシ取って、ボロ屋で寝とったんや?」

 信一郎は答えなかった。ただ、仙石屋の暖簾のれんを見つめている。その視線は懐かしさよりも、どこか痛みを帯びていた。

 美は十平次に視線を移し、静かに言った。

「あなた……お兄ちゃんから、仙石屋のこと聞いてないの?……話したいことは山ほどあるけど、後にするわね。もうすぐ……お父様のお葬式が始まるから……」

 そう言って、美は二人を店の中へと招き入れた。

***

 店内には鰹節や煮干の香りが満ち、壁際には蝦夷地えぞち産の昆布や干鯛が整然と積まれている。だが、その場の空気は重く、集まった乾物屋仲間たちの視線はどこか冷ややかだった。

 美は信一郎の袖をそっと引き、声を潜める。

「……乾物屋仲間の旦那様方がね、次郎兵衛じろべえ叔父さまを名代に推してるの。あの人、お父様が亡くなったのをいいことに、全部乗っ取るつもりよ」

 その名を聞いた瞬間、信一郎の胸に嫌な記憶が蘇る。と、その時、広間の奥から鋭い視線が突き刺さった。

 次郎兵衛。久兵衛の弟にして、仙石屋の内情をよく知る男。彼は信一郎と美を見下ろすとと、口の端を歪めた。

「……放蕩ほうとう息子が、今更戻ってきやがったか」

 次郎兵衛は二人を忌々いまいましげに見つめた。

「てめえらにできることなんざ、せいぜい兄貴が借りてた金を返すことぐらいだ。店のことには金輪際こんりんざい、口出しするな」

 その言葉に、十平次が一歩前へ出る。

「死神は連れてく相手、間違えたみたいやな」

 場が一瞬、凍りついた。次郎兵衛は眉を吊り上げ、十平次を睨み返す。

「誰だって悪徳商人は好かねえ。……そのガキどもも同じだ。とっとと日本橋から出ていった方が身のためだぜ」

 そう吐き捨てると、次郎兵衛は背を向けた。

 葬儀の支度が進む中、美は再び信一郎に囁いた。

「……お兄ちゃん。実は、新しい店を始められるだけのお金は残ってるの。深川、芝、浅草……日本橋の外でなら……。お父様の恩を忘れてない人も、まだいるわ」

 信一郎は静かに息を吐いた。仙石屋の暖簾の向こうで、金と銀、恩と怨が絡み合っている。

 これは終わりではない。始まりである。
第2話 葬送のあと
葬儀が終わり、弔問客が引いていくと、店の奥座敷には重い沈黙だけが残った。

美は茶を淹れながら、ちらりと兄の横顔を見た。信一郎は畳の目を見つめたまま、何も言わない。

「……お兄ちゃん」
美が声をかけると、信一郎はようやく顔を上げた。

「なんだ」
「怒ってる? 私が……もっと早く手紙を出せていれば、お父様に会えたかもしれないのに」
信一郎は首を横に振った。
「俺が勝手に出ていったんだ。お前のせいじゃない」
その言葉に、美は少しだけ肩の力を抜いた。けれど、胸の奥にあるわだかまりは消えない。

十平次が遠慮がちに口を開いた。
「なあ、さっきの話やけど……新しい店っちゅうのは、本気なんか?」
美は頷いた。
「本気よ。お父様が……万が一のときのためにって、私にだけ教えてくれたの。へそくり、っていうには大きすぎるけど」
「どこにあんねん、そないな金」

「それは……」
美は言いかけて、口をつぐんだ。信一郎がそっと制したのだ。
「十平次。それは後だ」
「……せやな。すまん」

三人の間に、再び静けさが落ちる。
美はそっと兄の手に自分の手を重ねた。冷たくて、少し震えている。

「お兄ちゃん。私ね、ずっと待ってた。いつか帰ってきてくれるって、信じてた」
信一郎は何も言わなかった。ただ、妹の手を握り返した。それだけで、美には十分だった。

障子の向こうで、日が傾き始めていた。
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