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しらさぎ館

制作者: 冬至梅
第1話 1945年十二月、ウェールズ南部にて
投稿者: 冬至梅
1945年十二月の昼下がり、灰色の雲が空をすっかり覆い、雪まじりの細い雨が絶え間なく降り続いていました。ロンドンから長い旅をしてきた列車は、速度を緩め、ひっそりとしたウェールズ南部の駅へと滑り込みました。

 木製の個室客車の扉が一つずつ開くたび、軍服姿の青年や肩を寄せ合う家族、そして大きな荷物を抱えた人々が、ホームへ降り立ちます。彼らの顔には、戦争が終わった安堵と、これからの日々への不安が淡く交じり合っていました。
 大きな機関車は甲高い汽笛を鳴らし、蒸気を力強く吹き上げると、客車を軋ませながら再びゆっくりと走り去っていきました。

 やがて、蒸気が薄れていった時、駅舎の屋根の下には、二つの人影が取り残されていました。山高帽をかぶった細身の紳士と、その傍らに立つ小柄で痩せっぽちの少女です。紳士は少女の手を握っていましたが、その指先には家族の温もりというより、壊れやすい荷物を落とすまいとするような、どこか距離のある冷たさがありました。

 その時、静かなホームに、落ち着いた声がそっと響きました。

「弁護士のマクリーン様でいらっしゃいますか?」

 振り向くと、五十代ほどの紳士が、深く帽子を取って礼をしていました。

白鷺館しらさぎかんの執事、ハロルド・ペニントンと申します」
第2話 アンナお嬢様
投稿者: 冬至梅
ペニントン氏の挨拶を受け、山高帽の紳士――弁護士のジョナサン・マクリーン氏は、深く頭を下げました。

「これはご丁寧に。長旅で遅くなり、大変恐縮です。こちらが、フェアボーン家のご令嬢、アンナ・フェアボーン様です」

 ペニントン氏は、アンナという少女へ向き直ると、言葉を選ぶようにゆっくりと話しかけました。

「アンナお嬢様……ご両親のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます。エドワード様もクララ様も……さぞご無念でいらしたことでしょう」

 しかし、アンナは小さく瞬きをしただけで、返事をしませんでした。その黒い瞳には、悲しみも不安も浮かばず、どこか遠い場所を見つめるような不思議な空虚さがありました。

 少女の沈黙を補うように、マクリーン氏が静かに続けました。

「エドワード・フェアボーン氏は、インドで資産を築かれた立派な紳士でした。しかし……ご存じのように、先の大戦で戦死されまして。訃報が届いた折、夫人はご旅行中で、熱病に倒れ、すでに……」

「……承知しております」

 ペニントン氏の目には、深い哀悼の色が浮かびました。

「戦争が終わり、イギリスの情勢が落ち着くまで、アンナお嬢様は奥様の旧友のお宅に預けられておりました」

 マクリーン氏がそう付け加えましたが、アンナは自分の名前が呼ばれても表情を変えず、まるで遠い場所の誰かの話を聞いているかのように、うつむいたままでした。
 その様子に、ペニントン氏はそっと視線を落としました。

 ――こんな小さな子が両親の死を受けて、何も感じないことがあるだろうか?

 胸の内に、ひそかな戸惑いが広がりました。

「……アンナお嬢様。どうぞお車へ。館までは少し距離がございます。」

 優しく差し伸べられた手を、アンナは警戒するように一瞬見つめてから、ようやく恐る恐る取ります。

 駅舎の外へ出ると、雪まじりの雨はなお降り続き、凍えるような風が吹き下ろしていました。ペニントン氏は、外套の裾を押さえながら、少女を守るようにその横を歩き始めました。
第3話 灰色の村
投稿者: 冬至梅
ペニントン氏は帽子のつばを押さえながら、停めてあった黒塗りの自動車へアンナを導きました。扉が静かに開かれると、アンナは一言も発さぬまま、後部座席へ身を滑り込ませました。

 エンジンが低く唸りを上げ、車が濡れた舗装道路を走り出すと、アンナは窓の外へそっと視線を移しました。ガラス越しに広がるウェールズの丘は、雨と霧に包まれ、どこまでも灰色に沈み込んでいるように見えました。

「お嬢様」

 運転席から、ペニントン氏の落ち着いた声が静かに届きました。

「モーガン家とフェアボーン家は、遠い親戚にあたります。アラステア・モーガン博士が、お嬢様の後見人であられるのです」

 アンナは窓に額を寄せたまま、まばたき一つせず、丘の重なりを見つめ続けています。

「遺産のことにつきましては、マクリーン様から詳しく伺っております。どうぞご安心ください」

 けれども「安心」という言葉は、まだアンナの心がそれを受け取る場所を見つけられずにいました。

 やがて舗装道路が尽き、車輪が未舗装の道へ入ると、泥が大きく跳ね上がりました。窓の外で茶色い飛沫が散り、重たい雨雲の切れ間には、夕日の光が微かに滲んでいます。

 しばらく走ると、小さな村を通り抜けました。石造りの家々は雨に濡れて黒ずみ、低い屋根の煙突からは細い煙が風に流れていました。道端では老人が泥炭を運び、羊飼いは静かに羊の群れを導いています。谷全体に戦後の疲れが深く染み込みながらも、それに耐え抜こうとする人々の確かな意志が、ひそやかに漂っていました。

 しかし、アンナの目には、そのすべてが色を失った、みすぼらしい景色として映ったのでした。

「……なんだか……何もないところね」

 掠れた声が、閉ざされた車内の空気を僅かに震わせました。

 ペニントン氏は前方から目を離さず、低く、しかし確かな調子で答えました。

「この村は空襲の被害を受けずに済みました。人々が力を合わせ、この谷を守ってきたのです」

 その言葉には静かな誇りがこもっていましたが、アンナの耳には届かないようでした。彼女は視線を逸らし、そっと目を閉じました。

 瞼の裏に浮かんだのは、遠いインドの鮮やかな光でした。強い太陽に照らされた赤い煉瓦の家々、甘く刺激的な香辛料の匂い、明るい声で行き交う人々。今しがた通り過ぎた村とは正反対の、色とりどりの世界です。けれどもその記憶もまた、両親とともに失われた場所として、アンナの小さな胸に静かに残っていました。
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