読み込み中...

奇天烈文房店。

第1話 奇天烈文房店。
雨の日にだけ、その路地は少し長くなる。
 鬱屈とした梅雨の合間にまるで天からの贈り物のように晴天になった日に気付いたことだった。
 普段なら、三歩で突き当たるはずのなんの変哲もない路地裏という名のゴミ置き場。晴れている日なら木の板で先が塞がれているのが大通りから目視出来るくらいの場所だった。だが、それがないのだ。
 普段なら三歩で突き当たるはずの裏道に入ってみた。傘をさして歩いていると、ぬるりとした感触に襲われ、先へと侵入されることが許される。気付いた瞬間には、いつものように木の板が背後にそびえ立っており、帰ることは許されなかった。

 進むか。

 まっすぐ何かに導かれるように歩いていくと、濡れたアスファルトに古い看板の影が滲んでそこには昔存在していた、しかし、数年前に潰れたはずの店の名前の看板がぶら下がってる。

 奇天烈文房店。

 そんな怪しい場所は、小学生の時にはお化けが出るだとか、流行りだったゲームの裏ボスが眠っているだとかで誰も近付こうとしなかった。
 ふと、ガラス越しに見える棚をのぞいてみる。色褪せたノート、試し書きのできない万年筆。色々なものが整然と並んでいる。ふと、扉に近付く。営業中の看板が出ているのに、音はなく、客の気配は当然ない。そもそも店主がいるのか、そんな疑問がよぎる。

 無意識にドアノブに手を掛けていた。その時だった。まるで逃げ道を塞ぐみたいな見たこともない豪雨に襲われる。このままだと傘が壊れる。そう思うと、ええいままよ、と店の中に入った。

「今日は、よく降りますね」

 店の奥からは、何か示し合わせたように声がした。まるで来るのがわかっていたように。
 その声は老婆の声。懐かしい気持ちもするような温かい声だった。
第2話 雨宿りと、懐かしい匂い
「あ……、すみません。あまりに酷い降りだったので」

僕は濡れた傘をすぼめ、申し訳なさそうに頭を下げた。
店内は、外の騒がしい雨音が嘘のように静かだった。古い紙の匂いと、微かに薫香くんこうのような、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐる。

店の奥、小さなカウンターに座っていた老婆は、シワの刻まれた目元を和ませて微笑んだ。
「いいんですよ。ここはそういう方のための場所でもありますから」

老婆は、茶托ちゃたくに乗った湯呑みを差し出した。立ち上る湯気が、僕の冷え切った指先をじんわりと温めてくれる。
「ありがとうございます。あの、ここって……」
こうとして、言葉が詰まった。小学生の頃、確かにここには文房具屋があった。でも、もう何年も前に取り壊されて、今は空き地になっていたはずだ。

店内の棚に目を向けると、琥珀こはく色の光に照らされた文房具たちが、静かに息を潜めている。見たこともない装丁のノートや、不思議な模様の入ったガラスペン。
床板が歩くたびに、小さくきしんだ。それはまるで、忘れていた記憶を呼び起こす合図のようだった。

「不思議そうな顔をしていますね。何か、お探しですか?」
老婆の問いかけに、僕は言葉を失った。自分でも何を求めてこの路地に迷い込んだのか、分からなくなっていたからだ。
第3話 老婆の言葉
投稿者: さんぽ
「……正直に言うと、自分でも分からないんです」

そう答えると、老婆は少しだけ嬉しそうに、うんうんと頷いた。

「それでいいんですよ。ここに来る方のほとんどが、そうおっしゃいますから」

老婆は立ち上がり、僕の横をゆっくりと通り過ぎた。着物の裾が擦れる音が、雨音よりもはっきりと耳に残る。

彼女は棚の奥から、一冊のノートを取り出した。表紙は深い紺色で、題名も、罫線もない。

「これは……売り物ですか?」
「ええ。もっとも、買うかどうかはあなた次第です」

老婆はノートを開き、僕の方へ向けた。
白紙――のはずだった。
だが、目を凝らすと、紙の奥に、消えかけの文字の跡が見える。

「……何か、書いてあったんですか?」
「書こうとして、書かなかった言葉たちです」

老婆は静かに言った。

「日記にしようとして閉じた一日。手紙にしようとして破いた文章。誰にも見せないつもりで、心の中に押し戻した考え」

胸の奥が、ひくりと痛んだ。
思い当たる節がいくつもある。

「この店の品はね、現実で居場所を失ったものばかりなんですよ」

老婆はノートを棚に戻し、別の引き出しを開けた。

「役目を終えなかった万年筆。使われる前に捨てられた消しゴム。そして――書かれなかった言葉」

僕は、無意識のうちに、自分の胸元に手を当てていた。
雨に濡れたシャツの下で、心臓が早鐘を打っている。

「……ここは、いつからあるんですか」
「必要とされた時から、です」

老婆はあいまいな答えを返した。
その視線が僕の背後へと向けられる。

振り返ると、入口のガラス戸の向こうで、雨が弱まり始めていた。
さっきまで叩きつけるようだった雨粒が、いつの間にか細く、静かになっている。

「雨が止めば、この店は閉まります」

老婆は、少しだけ名残惜しそうに言った。

「ですから、もし何か書き残したいなら、今のうちですよ」
「……書く、ですか」

カウンターの上には、いつの間にか一本の万年筆が置かれていた。
黒い軸に、細い銀の装飾。手に取ると、驚くほど軽い。

「上手である必要はありません」

老婆は微笑んだ。

「あなたの言葉であれば、それでいい」

僕は、白紙のノートを前に、しばらく動けずにいた。
書きたいことは山ほどあるはずなのに、いざ向き合うと、言葉が喉の奥で絡まる。

それでも、ペン先を紙に近づけた、その瞬間。
小説TOPに戻る