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奇天烈文房店。

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概要

第3話 老婆の言葉
さんぽ
2026年01月06日 12:54 | 17
「……正直に言うと、自分でも分からないんです」

そう答えると、老婆は少しだけ嬉しそうに、うんうんと頷いた。

「それでいいんですよ。ここに来る方のほとんどが、そうおっしゃいますから」

老婆は立ち上がり、僕の横をゆっくりと通り過ぎた。着物の裾が擦れる音が、雨音よりもはっきりと耳に残る。

彼女は棚の奥から、一冊のノートを取り出した。表紙は深い紺色で、題名も、罫線もない。

「これは……売り物ですか?」
「ええ。もっとも、買うかどうかはあなた次第です」

老婆はノートを開き、僕の方へ向けた。
白紙――のはずだった。
だが、目を凝らすと、紙の奥に、消えかけの文字の跡が見える。

「……何か、書いてあったんですか?」
「書こうとして、書かなかった言葉たちです」

老婆は静かに言った。

「日記にしようとして閉じた一日。手紙にしようとして破いた文章。誰にも見せないつもりで、心の中に押し戻した考え」

胸の奥が、ひくりと痛んだ。
思い当たる節がいくつもある。

「この店の品はね、現実で居場所を失ったものばかりなんですよ」

老婆はノートを棚に戻し、別の引き出しを開けた。

「役目を終えなかった万年筆。使われる前に捨てられた消しゴム。そして――書かれなかった言葉」

僕は、無意識のうちに、自分の胸元に手を当てていた。
雨に濡れたシャツの下で、心臓が早鐘を打っている。

「……ここは、いつからあるんですか」
「必要とされた時から、です」

老婆はあいまいな答えを返した。
その視線が僕の背後へと向けられる。

振り返ると、入口のガラス戸の向こうで、雨が弱まり始めていた。
さっきまで叩きつけるようだった雨粒が、いつの間にか細く、静かになっている。

「雨が止めば、この店は閉まります」

老婆は、少しだけ名残惜しそうに言った。

「ですから、もし何か書き残したいなら、今のうちですよ」
「……書く、ですか」

カウンターの上には、いつの間にか一本の万年筆が置かれていた。
黒い軸に、細い銀の装飾。手に取ると、驚くほど軽い。

「上手である必要はありません」

老婆は微笑んだ。

「あなたの言葉であれば、それでいい」

僕は、白紙のノートを前に、しばらく動けずにいた。
書きたいことは山ほどあるはずなのに、いざ向き合うと、言葉が喉の奥で絡まる。

それでも、ペン先を紙に近づけた、その瞬間。
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