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毒饅頭事件

制作者: 冬至梅
第1話
投稿者: 冬至梅
氷室ひむろ慎一しんいち警部は会議室の中央に立ち、ホワイトボードを見つめていた。捜査一課の空気は静かだが張り詰めている。氷室は腕を組み、深く息をついた。

***

 事件は三日前、繊維会社『大藤だいとうテキスタイル株式会社』に届けられた小包から始まった。送り主は老舗しにせ和菓子屋『雅芳堂がほうどう』。新商品の試作品として饅頭まんじゅうが一箱、メッセージと共に送られた。だが、社長・大藤だいとう宗治そうじはこれを「下世話なもの」として嫌い、常務の桑原くわはら達也たつやに譲った。

 開封の場に居た社員が語ったところでは、饅頭も箱もすでに発売されている定番商品とまったく同じで、新商品らしい特別さは微塵も感じられなかったという。それでも甘党の桑原は気にせず、八つの饅頭を五人の部下と分け合って食べ、一つは外勤中の社員の分として残しておいた。

 しかしその30分後、饅頭を口にした全員が突然痙攣けいれんを起こし、次々と床に倒れ込んだ。二つ食べた桑原は特に症状が重く、搬送先の病院で息を引き取った。
 残された一つの饅頭を鑑識が調べたところ、内部にトリカブト由来の猛毒・アコニチンが注射されている痕跡こんせきが見つかった。

 警察が雅芳堂に連絡したところ、店側は「そのような饅頭を送った覚えはまったくない」と断言した。送り状は店の名をかたっており、添えられたメッセージはかつて雅芳堂が使用していた専用便箋びんせん。しかし、その便箋は一年前に使用を停止している。包装紙はどこでも手に入る一般品だ。
 つまり、事件は和菓子屋での毒混入ではなく、大藤社長、あるいは会社を狙って巧妙に仕組まれたものである可能性が高い。便箋を手に入れられる人間は多く、特定は難航していた。
 さらに小包は、都内の運輸会社営業所に直接持ち込まれ、午前11時17分に受け付けられていたことが判明。防犯カメラは死角が多く、決め手に欠けた。

 大藤社長への事情聴取で、心当たりがある人物は一人だけだった。現在アメリカ在住で離婚調停中の妻・大藤だいとう玲子れいこ

「私が死ねば、遺産は奴のものになる」

 社長はそう述べたが、氷室はその言葉の裏に、説明し切れない個人的感情を感じ取っていた。

***

 氷室はマーカーを戻し、スーツの上着を取った。

「……ここは、奴に話を聞く必要がありそうだな」

 氷室は無言で会議室を後にした。
第2話 雅芳堂にて
雅芳堂は、都心から少し外れた商店街の一角にあった。

古びた木の看板、磨りガラスの引き戸。店先には季節の和菓子が並び、甘い香りがかすかに漂っている。

「…いらっしゃいませ」

奥から出てきたのは、五十代半ばと思しき女性だった。店主の中谷よし江。割烹着姿で、手には布巾を持ったまま。警察手帳を見せると、彼女の表情がわずかに強張った。

「あの事件のこと、ですよね」

「ええ。改めてお聞きしたいことがありまして」

氷室は店の隅にある小さな椅子を勧められ、腰を下ろした。中谷は向かいに座り、膝の上で両手を重ねた。その指先が、わずかに震えている。

「…うちの名前が使われたって聞いて、本当にびっくりしました。なんでうちなのか、見当もつかなくて」

「大藤テキスタイルの社長、大藤宗治さんとは面識は?」

「いえ、ほとんど。お見かけしたことはあるかもしれませんけど…」

中谷は視線を落とした。氷室は黙って待った。

「…ただ、父は存じ上げていたようです」

「先代の店主、中谷源蔵げんぞうさんですね」

「はい。父と大藤さんは、昔から付き合いがあったと聞いています。詳しいことは私も分からないんですが…父が亡くなったのは、もう十五年も前ですから」

中谷の声は静かだったが、どこか遠くを見るような目をしていた。

「当時のことをご存知の方は、他にいらっしゃいますか」

「そうですね…」

中谷は少し考え込むように首を傾げた。

「堀田さんなら、何かご存知かもしれません。父が元気だった頃、ここで働いていた方です。今は名古屋にお住まいで、年賀状のやり取りだけは続いているんですが」

「堀田さん。下のお名前は?」

「堀田正彦まさひこさんです。七十を過ぎていらっしゃるはずですけど、お元気だと聞いています」

氷室は手帳に名前を書き留めた。

「連絡先をお教えいただけますか」

「ええ、少々お待ちください」

中谷は奥へ消えていった。

氷室はふと、店内を見回した。壁には古い写真が何枚か飾られている。若い頃の中谷と、白髪の男性が並んで写っているものがあった。男性は穏やかな笑顔を浮かべている。

先代と娘。十五年前、何かあったのだろうか。

氷室は写真から目を離し、小さく息をついた。
第3話 情報整理 その一
投稿者: 冬至梅
夕方の捜査一課は、昼間とは別の緊張を帯びていた。氷室警部は会議卓の端に立ち、ホワイトボードに貼られた写真とメモを見渡した。正面には神崎かんざき修司しゅうじ坂上さかがみ琴枝ことえ一色いっしき智弘ともひろの三刑事が並び、各自が手帳を開いている。

「それじゃ、整理しよう」

 氷室の低い声に、室内の空気が引き締まった。

「まず、大藤テキスタイルと雅芳堂。現時点で直接の接点は確認できていません」

 一色が報告した。

「大藤社長は饅頭を自分では食べず、被害者の桑原に渡しました。『下世話なものだ』と」

「雅芳堂の店主、中谷よし江も同じですね」

 坂上が手帳をめくりながら補足する。

「警部の聞き取りによれば、なぜ自分の店が使われたのか、見当もつかないと言っています。大藤社長とも面識はほとんどありません。ただし……」

「先代の中谷源蔵だ」

 氷室が言葉を引き取った。

「源蔵は生前、大藤宗治と付き合いがあったらしい。十五年前に亡くなっているが、その関係の中身は不明だ」

 神崎が腕を組み、考え込むように唸った。

「過去の付き合いですか。恨みか、借りか……どちらにしても、今の二人には繋がらないのでは」

「そうだ。現時点では線にならない」

 氷室は一度視線を落とし、次の資料を指で叩いた。

「次に、社長が挙げた唯一の心当たり。妻の大藤玲子」

 坂上が即座に反応する。

「離婚調停中で、現在はアメリカ在住。動機はあっても実行可能性が低いですね」

「少なくとも単独犯なら無理がある」

 氷室は淡々と続けた。

「つまり、感情論で追う容疑者はいない。残るは物証と行動だ」

 そう言って、ホワイトボードの中央に貼られた二枚の写真を指し示す。一枚は雅芳堂の便箋、もう一枚は運輸会社営業所の外観だ。

「鍵は二つ。雅芳堂の専用便箋と、荷物の持ち込み時間」

 一色が前のめりになる。

「便箋は一年前に使用をやめています。つまり……」

「犯人はその便箋を入手できた人間か、あるいは一年以上前に入手して保管していた人物だ」

 氷室はそう言い切った。

「雅芳堂の関係者、元関係者、あるいは店に頻繁に出入りしていた者。範囲は広いが、無限じゃない。
 営業所への持ち込み時間は、12月8日、午前11時17分」

 氷室の声が、わずかに強まった。

「あそこの防犯カメラは死角が多くて、顔がはっきり映っていない。だが、その時間に持ち込んだ人間が犯人、もしくは協力者であることは間違いない」

 一瞬、沈黙が落ちた。氷室は資料の束から一枚を抜き取り、机に置いた。

「そこで次の一手だ」

 その紙に記されていた名前を、神崎が読み上げる。

「……堀田正彦。雅芳堂の元従業員」

 氷室は頷いた。

「中谷よし江の話では、源蔵が亡くなる十五年前まで店で働いていた。先代と大藤宗治の関係を知っている可能性がある」

「現在は名古屋在住、七十代」

 坂上が情報を補足する。氷室は神崎に視線を向けた。

「神崎、名古屋へ行け。堀田正彦に直接会って話を聞くんだ。どんな些細ささいなことでも構わない」

「承知しました」

 神崎は即答し、立ち上がった。その顔には僅かな緊張と同時に、刑事としての昂ぶりが浮かんでいる。
第4話 名古屋にて
神崎修司は、名古屋駅から私鉄を乗り継ぎ、閑静な住宅街へとたどり着いた。

堀田正彦の自宅は、古いが手入れの行き届いた一軒家だった。庭には季節外れの菊が数輪、静かに咲いている。
「わざわざ東京から?まあ、どうぞお上がりください」
堀田は思ったより元気そうだった。72歳と聞いていたが、背筋は伸び、眼鏡の奥の目は鋭い。神崎を居間に通すと、妻らしき女性がお茶を運んできた。

「雅芳堂のことでお話を伺いたいんです。先代の中谷源蔵さんと、大藤宗治さんの関係について」
堀田は湯呑みを両手で包み、しばらく黙っていた。
「……源蔵さんと大藤さん、ね」
その声には、懐かしさとも苦さともつかない響きがあった。

「お二人は同郷だったと聞いています」
「ええ。新潟の小さな町でね。源蔵さんが五つ年上で、大藤さんは弟分みたいなもんでした。東京に出てきてからも、よく店に顔を出して、二人で酒を酌み交わしてましたよ」
堀田は遠くを見るような目になった。
「大藤さんが繊維の仕事で成功してからも、その関係は変わらなかった。偉くなっても、源蔵さんの前では昔のまんまでね。『兄貴、兄貴』って」
「その頃、大藤社長の奥様……玲子さんとも面識が?」
「ありましたよ」
堀田の声が、わずかに低くなった。

「玲子さんは……若い頃、うちで働いてたんです」
神崎の手が止まった。
「雅芳堂で?」
「ええ。短大を出て、和菓子に興味があるからって。住み込みで二年ほど。源蔵さんも気に入ってね、実の娘みたいに可愛がってた」
「それで大藤社長と……」
「そう。大藤さんが店に来るたび、玲子さんがお茶を出してた。自然とそうなったんでしょうな」

堀田は湯呑みを置き、深く息をついた。
「源蔵さんは喜んでましたよ。弟分と、娘同然の子が一緒になるんだから。結婚式の仲人も引き受けて」
「当時、他に従業員の方は?」
「私の他には……ああ、アルバイトの子が一人いましたね。かじ君っていう大学生で」
「梶君」
「ええ。真面目な子でね。玲子さんとは歳が近かったから、よく話してました。仕事の後に二人で遅くまで残って、菓子の試作をしてるのを見たこともある」

堀田は思い出すように天井を見上げた。
「玲子さんが結婚して店を辞める時、梶君もちょうど就職が決まって出ていった。それっきりですね」
「その梶さんは、今どちらに?」
「さあ……」
堀田は首を横に振った。
「まったく分かりません。連絡先も知らないし、その後どうなったかも。もう三十年近く前の話ですから」
神崎は手帳に「梶」と書き留めた。

「では、この便箋についてお聞きします」
鑑識が撮影した便箋の写真を差し出す。堀田は眼鏡を押し上げ、写真を覗き込んだ。
その瞬間、堀田の顔色が変わった。
「……これは」
「ご存知ですか」
堀田は写真を持つ手を、かすかに震わせていた。

「これは……玲子さんがデザインしたもんです」
「玲子さんが?」
「結婚が決まった時にね。源蔵さんへの感謝の気持ちを込めて、自分で絵を描いて。『雅芳堂の便箋に使ってください』って」
堀田は写真から目を離さなかった。

「源蔵さん、泣いて喜んでましたよ。『これからは、この便箋で大事な手紙を書く』って。それ以来、雅芳堂の正式な便箋になったんです」
神崎は息を呑んだ。被害者に送られた毒饅頭には、その便箋が添えられていた。玲子がデザインした、三人の絆の証が。
「……しかし、なぜこれが事件に」
堀田の声は掠れていた。

「一年前に使用をやめたと聞いています。理由をご存知ですか」
「よし江さん……今の店主が、店の刷新を進めていてね。古いものは順番に変えていくって。便箋もその一つだったんでしょう」
堀田は写真を神崎に返し、窓の外に目を向けた。
「源蔵さんが亡くなって十五年。大藤さんと玲子さんが離婚調停中だって話は、風の便りに聞いてます。あの頃を知ってる者としては……寂しいもんですな」
神崎は礼を言い、堀田の家を後にした。

駅へ向かう道すがら、神崎の頭の中で情報が組み上がっていく。
玲子がデザインした便箋。三人の絆を象徴するもの。それを使って毒饅頭を送った犯人は、この過去を知っている人間だ。
そして、もう一人。玲子と親しかったというアルバイトの梶。今どこで何をしているのか、誰も知らない。

神崎はスマートフォンを取り出し、氷室警部に報告を入れた。
「……警部。玲子さんの渡米時期と、源蔵さんが亡くなった時の状況を調べてください。それと、当時雅芳堂でアルバイトをしていた『梶』という人物の行方も」
通話を終え、神崎は足を速めた。

名古屋の冬空は、重く曇っていた。
第5話 情報整理 その二
投稿者: 冬至梅
捜査一課のフロアは夜のとばりに包まれ、外の雨音が窓ガラスを叩いていた。氷室慎一警部は机に広げられた資料を見下ろし、坂上琴枝刑事は名古屋から届いた報告書を指でなぞっている。

「……偽装に用いられた便箋は、中谷源蔵、大藤宗治、大藤玲子の絆の象徴だったんですね」

 坂上は静かに呟いた。氷室は返事をせず、ホワイトボードに貼られた便箋の写真に目を留める。かつて祝福の証だったものが、今は毒の添え物という事実。

「その便箋が犯行に用いられたということは、三人の過去を知る者による何かしらの意味づけではないでしょうか」

 坂上は言葉を選びながら続けた。氷室は顎に手を当て、しばし沈黙した。

「どうかな。俺には、それよりもっと気になることがあるんだが」

 氷室は資料の束から一枚を抜き、坂上に向けた。

「大藤社長の秘書によると、大藤は雅芳堂名義で送られてきた饅頭を『下世話なもの』と言ったそうだな」

「はい。それで桑原常務に譲ったと」

「兄貴分の店が送ってきたものを、だぞ。雅芳堂は二人にとって私的な交流の場で、妻と出会った場所だというのに」

 氷室の声は低く抑えられていたが、その底に引っかかりがあった。

「中谷源蔵の死から十五年……大藤宗治と雅芳堂の間に、何かがあったんじゃないか」

 坂上は一瞬、言葉を探した。

「神崎くんの報告では、中谷よし江は店の刷新を進めているといいます。それが関係しているのでは」

「中谷よし江……」

 氷室はその名を反芻はんすうするように繰り返し、眉間にしわを寄せた。

「中谷よし江は、『詳しいことはわからない』と言っていたが……」

 そのとき、フロアの入口から足音が近づいた。資料を抱えた一色智弘刑事が、少し早足で入ってくる。

「警部。大藤玲子の渡米時期と、それから梶のこと、掴めました」

 空気が一段階、張り詰める。氷室と坂上の視線が一色に集まった。

「話せ」

 一色は息を整え、要点だけを選ぶように続けた。

「大藤玲子は二年前に渡米しています。ワシントンD.C.在住の知人を頼って移住したとのことです。その知人は——」

 一色は一拍置いた。

かじ元之もとゆき。雅芳堂でアルバイトをしていた男です」

 氷室の視線が、ホワイトボードの「梶」という名前に吸い寄せられた。過去の点が現在に接続される。

「続けろ」

「梶は、ワシントンに本社を持つ外資系製薬会社で働いています。そして今、アメリカから東京に戻ってきているようです」

 室内に雨音だけが残った。氷室はゆっくりと息を吐き、立ち上がる。

「アコニチン。製薬会社。東京。運輸会社……」
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