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透明な記憶

制作者: ケンヂ
第1話 記憶の引き出し
投稿者: ケンヂ
妻が死んでから、もう二年が経つ。

俺は今日も、仕事から帰ると真っ先にリビングのソファに座り、こめかみに小さなデバイスを当てる。ヘッドセットみたいなやつだ。スイッチを入れると、目の前に半透明のディスプレイが浮かび上がる。

『記憶再生システム起動中……』
画面にそう表示されて、数秒後、俺の視界が切り替わる。
そこは三年前の春、桜が満開だった代々木公園だ。

「ねえ、あなた。写真撮ってー」
妻の声が聞こえる。振り向くと、彼女が笑っている。ピンクのカーディガンを着て、少し照れくさそうに手を振っている。あの日と同じように。
これは俺の記憶だ。正確には、俺の脳内に保存されていた記憶データを、メモリーバンクのサーバーにアップロードしたものだ。
今の時代、記憶は「保存」できる。劣化もしない。いつでも、何度でも、あの日に戻れる。
俺は毎日、この記憶を再生する。妻と過ごした日々を、繰り返し繰り返し体験する。そうしないと、彼女の顔を忘れてしまいそうで怖いから。

「ありがとう。きれいに撮れた?」
彼女が俺のスマホを覗き込んでくる。シャンプーの匂いがする。いや、これは記憶の中の匂いだ。脳が勝手に補完してるんだろう。でも、それでもいい。
俺は彼女の笑顔を見つめる。
でも、今日は何か違和感があった。

妻の後ろ、桜の木の下に、見覚えのない男が立っていた。
いや、待てよ。この記憶、何度も再生してるけど、こんな人いたっけ?
男はこっちを見ている。いや、正確には妻を見ている。その目は、どこか切なそうで――

「あなた? どうしたの?」
妻が不思議そうに俺の顔を覗き込む。
「いや、なんでもない」
俺はそう答えて、記憶再生を終了させた。
リビングのソファに座る自分に戻る。こめかみのデバイスを外して、しばらくぼんやりと天井を見つめた。
気のせいだろうか。
でも、あの男は確かにいた。俺の記憶の中に。
妻を見つめていた、あの男は誰だ?
第2話 誰かの記憶
投稿者: さんぽ
翌日、仕事中にもあの男のことが頭から離れなかった。

 桜の木の下に立っていた知らない男。何度も再生してきたはずの記憶の中に、突然現れた異物。

 気のせいじゃない。どうしてもそう思えなかった。

 定時で帰宅するとソファに身を沈め、こめかみにデバイスを押し当てた。視界に淡い光が走り、代々木公園での記憶が展開される。

――やはり、あの男がいる。

 今度は、彼がどんな表情をしているか、じっくり観察する。細身の身体、無地のシャツ、目元にかかる前髪。年齢は俺より少し下か。

 そして……彼は泣いていた。声こそ聞こえないが、確かに涙が頬を伝っていた。

 どうしてだ? なぜ、俺の記憶の中で、見知らぬ男が妻を見つめて泣いている?

「記憶精度、100%。改変ログなし」

 再生を一時停止して、脳内ナビに問いかける。すると、冷たい女性の声が返ってきた。
 つまり、この映像は間違いなく俺自身の記憶。誰かが後から書き換えたわけではない。

 けれど、それなら――この男は、最初から俺の記憶の中にいたということになる。

 気づかなかったのか? いや、そんなはずはない。こんなに目立つ位置にいた人間を見落とすわけがない。

 ……本当に、これは「俺の」記憶なのか?

 不意に、奇妙な思考がよぎる。
 もしかしたら、これは誰かの記憶と混線しているのではないか?

 最近、記憶再生デバイスの不具合が話題になっていた。
 クラウドに保存された無数の記憶が、まれに別人のデータと混ざることがある。
 そんなニュースを見た記憶が、うっすらと残っている。

「記憶ソース確認」

 そう指示を出すと、目の前に小さなウィンドウが開いた。
 そこには、ありえない文字列が表示されていた。

【Memory Source: USER_ID_8297A4B1】

 俺じゃない。これは、別の誰かの記憶だ。

「……どういうことだ」

 思わず呟く。

 妻の記憶。あの日、俺が彼女と笑い合った、最後の春の記憶。それが他人のものと混ざっていた? なぜ? 誰と?

 もう一度、あの男を見つめる。
 泣いている彼の目は、明らかにそこにいる「妻」を見ていた。
 切なさと後悔と愛しさが入り混じった、どうしようもない感情が痛いほど伝わってくる。

 もしかして……この男は妻の過去を知る誰かか? あるいは、彼女に想いを寄せていた、別の「誰か」なのか。

 記憶再生を停止し、俺はソファから立ち上がる。

 答えを知るには、あの「USER_ID_8297A4B1」が誰なのかを突き止めるしかない。
第3話 通知
投稿者: さんぽ
翌週、俺は会社を休んだ。理由は体調不良と伝えた。本当は違う。
 ただ、どう言葉にしたらいいか分からなかった。

 ……頭が妙に冴えている。
 だというのに、目の奥がじんじん痛む。
 たぶん、ずっと張りつめていた糸が切れかけているのだ。

 このまま放っておけば、俺は二度と現実に戻れなくなる。そんな予感がしてしまう。

 あの「ID:8297A4B1」。
 照合申請を出せば、過去ログの閲覧もできる。
 それは分かっていたが、俺は……まだその手続きをしていない。

 怖かったのだ。

 その記憶が「彼女の知らない一面」だったら。
 俺の知らない彼女の人生だったら。
 今、俺が大切に抱いているすべてが、崩れてしまう気がした。

 だから、その日一日、俺はただ部屋の中を歩き回っていた。

 冷蔵庫の音がする。時計の針の音。
 郵便受けに入ったチラシ。
 なんでもない生活の音が、やけにうるさく感じる。

 スマートデバイスが点滅している。
 未読通知がひとつ。
 ――自動同期された「外部記憶サーバー」からの更新だ。

 ひとつ開いてみる。
 再生ボタンを押す指が、かすかに震えた。

 映像が始まる。
第4話 エラーコード
投稿者: ケンヂ
視界がジャックされたような感覚だった。

再生された映像は、あの日と同じ代々木公園の風景だ。けれど、カメラのアングルが決定的に違っていた。
低い位置から、やや見上げるような視点。そして目の前には、俺の妻が立っている。

俺の記憶の中の彼女は、俺に向かって手を振っていた。
だが、この映像の中の彼女は違う。
困ったような、それでいてどこか慈愛に満ちた複雑な表情で、レンズの向こう側にいる「誰か」を見下ろしていた。

「ごめんね」

妻の唇が動く。音声データは破損しているのか、ノイズ混じりだが、その言葉だけははっきりと読めた。

「もう、会えないの。私、彼を愛してるから」

心臓が早鐘を打つ。
これは、あの男の視点だ。
ID「8297A4B1」。あの桜の木の下で泣いていた男の記憶データが、何らかのバグで俺のクラウドと同期してしまったのだ。

妻は、あの男を知っていた。
そして、別れを告げていた?
俺と結婚してから二年も経っていたあの春の日に?

ブツン、と唐突に映像が途切れる。
暗転した視界に、無機質なシステムメッセージだけが明滅していた。

『同期エラー:対象のメモリ領域にアクセスできません』
『ソース元の座標データを取得しました』

俺は震える手でその座標をメモに書き写す。
感情的になりそうな自分を、理性が必死に押しとどめていた。これはただの感傷的なドラマじゃない。システム的な齟齬が生んだ、解くべきパズルだ。

座標が指し示していたのは、ここから電車で一時間ほどの場所にある、古い療養型病院だった。

俺はデバイスを乱暴に外すと、上着を掴んで部屋を飛び出した。
答え合わせをしに行かなければならない。
俺の知らない妻と、あの男の間にあった「記憶」の正体を突き止めるために。
第5話 開放された病院
投稿者: さんぽ
療養型病院は、夕方の光に沈んでいた。

最寄り駅から歩くにつれ、街の色が少しずつ薄れていく。
コンビニの看板は減り、代わりに色褪せた住宅と、使われていない公園が増える。
地図アプリが示すピンは、現実から半歩ずれた場所に刺さっているように見えた。

病院の門は開いていた。
だが「歓迎」ではない。ただ、閉じる理由を失っただけの開放だった。

受付には人がいない。
呼び鈴を押しても反応はなく、廊下の奥から聞こえるのは、機械の低い駆動音と、誰かの咳払いだけだ。

――来るな。

そう言われている気がした。
それでも足は止まらなかった。

ナースステーションの壁に貼られた掲示物の端が剥がれ、下から古い紙が覗いている。
そこに、見覚えのあるフォントがあった。

ID管理表。
患者識別コード。

「……8297A4B1」

思わず声に出してしまう。
桁数も、アルファベットの配置も、完全に一致していた。

廊下の突き当たり、カーテンで仕切られたベッドの一つ。
その前で、足が止まる。

中にいるのは、老人だった。
やせ細った身体。点滴の管。焦点の合わない目。
だが、俺は一瞬で理解してしまった。

――ああ。

これは「今」ではない。

彼の脳波モニターに表示されている波形。
それは、記憶デバイスで再生した時と、同じパターンだった。

「……あなたが、8297A4B1か」

老人は反応しない。
だが、その指先が、わずかに動いた。

俺は、デバイスを取り出した。
再生ボタンに指をかける。

その瞬間、理解した。

あの記憶は――
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