その日は、いつもと変わらぬ朝のはずだった。
八五郎は目を覚ますなり、枕元の箱に手を伸ばした。毎朝の習いである。
ところが――。
指で撫でても、箱の面は暗いまま。何度触っても、ぴくりとも光らぬ。
「おいおい、箱先生。寝坊かい?」
冗談めかして言ってみたが、返事はない。八五郎の額に、うっすらと汗が浮いた。
***
同じ頃、江戸のあちこちで似たような光景が広がっていた。
魚河岸では、仲買人たちが箱を振ったり叩いたりしている。今日|鯛の値を箱に聞かねば、競りが始められぬのだ。
長屋の井戸端では、女房たちが顔を寄せ合っている。
「今夜の献立、何にすればいいの」
「……わからない。箱がないと、わからないの」
ある女房などは、箱を抱きしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
***
御隠居の家にも、八五郎が転がり込んできた。
「御隠居!大変だ、大変だ!」
「どうした八、朝から騒々しい」
「箱先生が…箱先生が、お隠れになっちまった!」
御隠居は、湯呑みを手にしたまま、ふうと息をついた。
「そうか。それで?」
「それでって…! 俺ぁもう、今日何を着ればいいかもわからねえ。朝飯に何を食えばいいかも。このあと何処へ行けばいいかも……」
八五郎の声は、次第に震えてきた。
「…俺、どうやって生きてきたんだっけ」
その呟きは、あまりにも心細く、御隠居の胸にも小さな棘のように刺さった。
八五郎は目を覚ますなり、枕元の箱に手を伸ばした。毎朝の習いである。
ところが――。
指で撫でても、箱の面は暗いまま。何度触っても、ぴくりとも光らぬ。
「おいおい、箱先生。寝坊かい?」
冗談めかして言ってみたが、返事はない。八五郎の額に、うっすらと汗が浮いた。
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同じ頃、江戸のあちこちで似たような光景が広がっていた。
魚河岸では、仲買人たちが箱を振ったり叩いたりしている。今日|鯛の値を箱に聞かねば、競りが始められぬのだ。
長屋の井戸端では、女房たちが顔を寄せ合っている。
「今夜の献立、何にすればいいの」
「……わからない。箱がないと、わからないの」
ある女房などは、箱を抱きしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
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御隠居の家にも、八五郎が転がり込んできた。
「御隠居!大変だ、大変だ!」
「どうした八、朝から騒々しい」
「箱先生が…箱先生が、お隠れになっちまった!」
御隠居は、湯呑みを手にしたまま、ふうと息をついた。
「そうか。それで?」
「それでって…! 俺ぁもう、今日何を着ればいいかもわからねえ。朝飯に何を食えばいいかも。このあと何処へ行けばいいかも……」
八五郎の声は、次第に震えてきた。
「…俺、どうやって生きてきたんだっけ」
その呟きは、あまりにも心細く、御隠居の胸にも小さな棘のように刺さった。
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