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ファントム・オブ・ジ・オペラ

制作者: 冬至梅
第1話 プロローグ
投稿者: 冬至梅
***

 1880年、冬の気配が濃く垂れ込めるパリの明朝、重々しい馬車がガルニエ宮の石畳を震わせながら止まった。巨大なオペラ座の外壁は薄靄に包まれ、まるで眠りから覚めきらぬ巨獣のように静かであった。新任支配人アマンド・モンチャミンとファーミン・リチャードは、冷気を払いながら馬車を降り、その後に若き出資者ラウル・シャニュイ子爵が続いた。華奢な外套を翻したラウルの瞳は、まだ見ぬ舞台の輝きと新たな責務の重さの狭間で揺れているようであった。

 扉が軋む音とともに、黒衣に身を包んだ細身の女性が、まるでそこに溶け込んでいたかのように姿を現した。深い影のような瞳を持つその女は、恭しく頭を垂れた。

「お待ちしておりました、モンチャミン様、リチャード様、そしてシャニュイ子爵。私、バレエ指導を務めておりますジリーと申します。」

 その低く柔らかい声には、どこか秘密を抱えた者の響きがあった。三人をロビーへと案内する彼女の足取りは、薄暗い広間に漂う冷たい空気を避けるように滑らかで、ラウルはふと背筋をすくめた。幾千もの観客を魅了するこの宮殿は、今は不気味な沈黙に支配されていた。

 マダム・ジリーは立ち止まり、黒いレースの手袋をはめた指で封蝋の施された一通の手紙を差し出した。赤い蝋には奇妙な印が押されており、まるで外気よりもなお冷たい気配を帯びている。

「……お三方へ。こちらを、ある方より預かっております。」

 受け取ったリチャードが封を切ると、紙面には端正な筆致でこう記されていた。

《私こそがオペラ座の真なる支配者である。
 ゆえに、毎月二万フランを支払うこと。
 また、五番ボックス席は常に私のために空けておくこと。
 ——O.G.》

 モンチャミンは鼻で笑い、ラウルは眉を寄せて紙面を覗き込んだ。

「O.G.…? これは一体、誰の略号なのです?」

 その問いに、マダム・ジリーは一瞬だけ視線を彷徨わせ、やがて怯えにも似た静けさを含んだ声で答えた。

「……Opera Ghost——オペラ座の怪人でございます。」

 その名が空気を震わせた瞬間、ラウルは不意に感じた視線に振り返る。しかし廊下の奥には、ただ闇だけが揺らめいていた——まるで何者かが、すでに彼らの到着を待っていたかのように。
第2話 亡霊からの挨拶
「馬鹿げている!」

 新支配人リチャードは手紙を握りつぶし、相棒のモンチャミンと共に鼻で笑った。
「月二万フランだと?亡霊が給料を欲しがるとはな。行くぞ、仕事だ」

 二人はマダム・ジリーの警告も聞かずに階段を上がっていく。取り残されたラウルに、ジリーが低い声で告げた。
「……あの方々は、怪人を甘く見ています。彼は影であり、拒絶は招待状と同じですわ」

 その直後だった。支配人室から素っ頓狂な悲鳴が上がったのは。
「な、ない!私の金時計がない!」

 ラウルたちが駆けつけると、リチャードが青ざめた顔でポケットをまさぐっていた。馬車を降りた時は確かにあったはずの家宝の時計が消え、代わりに一枚のカードが出てくる。

《今月の給与の前払いとして、金時計は頂戴した。
君たちの誠意の軽さを補うのに丁度いい。  ——O.G.》

「いつの間にスッたんだ……!?」

 絶句する支配人たちの傍ら、ラウルは開け放たれた窓辺に歩み寄った。そこには犯人の姿はなく、ただ一本、真紅の薔薇が手すりに残され、冬風に揺れているだけだった。

「オペラ座の怪人……」
ラウルは薔薇を拾い上げ、口元を緩めた。
「奴はただの脅迫者じゃない。奴こそが…」
第3話 エンジェル・オブ・ミュージック
投稿者: 冬至梅
同じ頃、支配人室のざわめきなど遠い世界のことのように、コーラスガールの楽屋には静謐な空気が満ちていた。大きな鏡と古い譜面台、そして微かな蝋燭の光。その中央で、栗色の髪を肩に垂らした若い娘がひとり、まるで祈りの儀式を捧げるように歌っている。
 クリスティーヌ・ダーエ——父を失い、今はオペラ座に住み込みの団員として暮らす孤独な少女。だがその歌声だけは、孤独の影からそっと解き放たれるかのように清らかであった。

 彼女の胸中では、細く、熱く、ひたむきな思いが揺れていた。

 ——どうか、届きますように。
 ——わたしの「天使様」に、この声が届きますように。

 夜ごとどこかから囁きかけ、姿なきまま道を示してくれる“誰か”。クリスティーヌにとって唯一の導きであり、父の亡きあと、誰よりも心を寄せられる存在。彼女はその声に救われ、鍛えられ、いつしか「音楽の天使」と信じるようになった。

 最後の高音をそっと空気に溶かした時、練習の余韻が静かに消えていく中で、クリスティーヌは息をついた。額にわずかな汗が滲み、胸が高鳴ったまま落ち着かない。うまく歌えただろうか。今夜も、天使様に応えられるだろうか——。

 その時だった。楽屋の扉と床の隙間に、細長い影が差し込んでいるのに気づいた。紙だ。誰かが置いていったのだと理解した瞬間、クリスティーヌの心臓は跳ね上がった。まさか、と震える指で拾い上げると、思った通り、封蝋には見慣れた印章が刻まれている。

 喉がひとりでに鳴り、彼女は封を切った。淡く黄ばみかけた上質紙には、端正な筆致でこう記されていた。

《私のクリスティーヌ。
 今宵のレッスンは、一つの分かれ目である。
 君の歌声に、天へ羽ばたく翼が備わったか——
 あるいは、まだ母鳥の庇護を離れられぬヒナにすぎないか。
 それを審査させてもらう。
 いつものように、世界が寝静まった頃、楽屋にて待つ。
 ——音楽の天使》

 胸が熱く締めつけられる。「天使様……」と名を呼ぶ声は、震えながらも確かな喜びを帯びていた。
第4話 疑惑の眼差し
手紙をドレスのポケットの奥深くへ押し込むと、クリスティーヌは音を立てないように楽屋を抜け出した。
深夜のオペラ座は、まるで冷たい水底のようだ。自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
誰にも見られてはいけない。天使様との約束なのだから。

(急がなきゃ……)

足早に角を曲がろうとした、その時だった。
暗闇から現れた人影と、鉢合わせになりそうになる。

「きゃっ!」
「……おっと」

短い悲鳴を上げて立ち止まったクリスティーヌの目の前に、長身の男性が立っていた。
ガス灯の薄明かりが、その端正な横顔を照らす。

「ラウル……?」

そこにいたのは、幼馴染のラウル・シャニュイ子爵だった。
クリスティーヌはほっとして息を吐きかけるが、すぐに言葉を飲み込んだ。ラウルの様子が、どこかおかしかったからだ。

彼は驚いた顔を見せたのも束の間、クリスティーヌの全身をじろじろと観察するように見回したのだ。懐かしむような温かさはそこになく、あるのは冷ややかな探るような色だけだった。

「こんな時間にどこへ行くんだい、クリスティーヌ」
「えっと、その……歌の練習を、し直したくて」
「練習?誰もいない真っ暗な廊下でか?それに、さっきから君は後ろばかり気にしている」

ラウルが一歩、距離を詰める。クリスティーヌは反射的にポケットの上から手紙を押さえた。その小さな動作を、ラウルの鋭い視線は見逃さなかった。

「……何を隠した?」
「な、何でもないわ!」
「このオペラ座では奇妙な事件が続いている。支配人の時計が消えたり、脅迫状が届いたり…。まさかとは思うが、君も『何か』に関わっているんじゃないだろうな?」
ラウルは静かに、けれど有無を言わせない口調で問い詰める。

その言葉に、クリスティーヌの心臓が早鐘を打つ。
ラウルは、私が怪人……いいえ、天使様の手先だと疑っているの?

「ち、違う!私はただ……!」

これ以上問い詰められたら、天使様のことを話してしまうかもしれない。
クリスティーヌは居ても立ってもいられず、ラウルの横をすり抜けて走り出した。

「あっ、待って!クリスティーヌ!」

背後で呼ぶ声を振り切って、闇雲に廊下を駆ける。
ラウルはすぐには追いかけてこなかった。ただ、その背中に突き刺さるような疑いの視線を感じて、クリスティーヌは涙目になりながら闇の中へと逃げ込んだ。
第5話
投稿者: 冬至梅
クリスティーヌは、涙が滲む視界のまま階段を駆け降りた。ようやく辿り着いたのは、地下一階の隅に取り残された、今は誰も使わない古い楽屋。扉を閉めた途端、荒い息が狭い空間に満ち、胸の鼓動が痛いほど響いた。

 彼女の心には、先ほどのラウルの鋭い視線が焼きついていた。
 ——嫌な予感はしていたのだ。
 幼馴染のラウルがオペラ座の新しい出資者になると知った瞬間から、胸の奥がそわそわと波立っていた。「音楽の天使」は、誰にも知られてはならない。そう、あの方自身から固く命じられている。けれど、彼との再会でその秘密が脅かされるかもしれないと、彼女は薄々感じていた。

 ラウルを欺いたことが後ろめたい——それは否定できない。
 だが、あの時のラウルは、記憶の中の温かな少年ではなかった。冷たい観察者。まるで他人の仮面をかぶったように、疑いの色を隠そうとしなかった。時が彼を変えてしまったのだろうか。クリスティーヌの心には疑念が芽生えていた。

 その時、不意に、鏡が小さく震えるような気配がした。
 続いて、闇の向こうから囁きが落ちる。

「……クリスティーヌ、クリスティーヌ」

 その声を聞いた瞬間、彼女の身体は弾かれたように震えた。

「天使様……!」

 やはり、すべて見られていたのだろうか。ラウルとの、あの危ういやり取りまで。

「迷える子よ、なぜ怯えている?」

 見えない姿のまま、鏡の奥から優しく、それでいてどこか冷たい響きが伝わってくる。

「わたし……その、ラウルが……」

 クリスティーヌは隠し立てをやめ、正直に胸の内を吐き出した。息は震え、視線は床に沈む。

「案ずるな、クリスティーヌ」

 声は低く、甘く、しかし決して逆らえない力を帯びていた。

「地上の人間に私を知ることはできぬ。私と私の音楽は、君だけのものだ」

 鏡の向こうの気配が、彼女を包み込むように強まる。

「いいかね、地上の苦しみや楽しみなど、究極の音楽の前には無意味だ。君はそのようなものに心奪われてはならない。私の音楽を……私だけを愛さなければならないのだ! それが、君がこの私に報いる唯一の道だと思って……」

 クリスティーヌは、胸の奥が熱く締めつけられるのを感じた。それは恐れと安堵と、甘い陶酔が混じり合った感覚だった。

「……はい、天使様。これまでのご恩に、必ず応えてみせます……」

「そう……それでいい……」

 囁きは満足げに沈み、やがて再び深い静寂を振るわせた。

「さあ、レッスンを始めよう。告知通り、今夜は君の翼がどれほどのものになったか試させてもらう」

 その瞬間、鏡の面が、まるで水面のように揺らいだ。
第6話 支配人のオフィス
投稿者: 冬至梅
翌朝、玄関ホールの大理石には灰色の朝靄がうっすらと纏わりついていた。アマンド・モンチャミンとファーミン・リチャードは、扉を押し開けると同時に、劇場の冷えた空気に迎えられる。だが、その静けさの裏には、昨夜から続く不吉な気配が潜んでいるようであった。

 リチャードは胸元に触れ、失われた金時計を思い出しては深いため息をつく。

「まったく……あれがないと落ち着かん」

 モンチャミンは肩をすくめ、やや軽い調子で言う。

「もう忘れたまえ。劇場支配人の月給なら、金時計ぐらい新しいのが買えるだろう」

「買えるわけがないだろう! あれは家宝だったんだ!同じものは二つとない!」

 リチャードは足取りを乱し、声を荒げる。

 支配人室の前に近づくと、そこでマダム・ジリーが控えていた。

「おはようございます。モンチャミン様、リチャード様」

「おはよう、マダム」

 モンチャミンが答えた瞬間、彼女は静かに手を差し出した。

「……お二人へ、こちらをお預かりしております」

 昨日と同じ赤い封蝋。奇妙な印章が不気味な存在感を放っていた。リチャードの顔色がみるみる青ざめる。

「まさか……O.G.ではないだろうね?」

 その問いに、マダム・ジリーは一言も発さず、ただ小さく頷いた。リチャードは額を押さえ、呻く。

「まったく、勘弁してくれ……」

「まあ、中でゆっくり読むとしよう。マダムもお入りなさい」

 モンチャミンが扉を開け、三人は薄暗い支配人室へ足を踏み入れた。

 重厚なデスクに腰かけたモンチャミンは、封を切り、中の手紙を広げる。
第7話 秘密の代償
手紙を手に取ったモンチャミンは、一瞬だけ眉をひそめた後、声に出して読み上げた。

「えー、『支配人諸君。君たちは私の存在を軽んじているようだが、今夜の公演でその愚かさを理解するだろう。クリスティーヌ・ダーエをプリマとして舞台に立たせよ。彼女こそが、真の歌声を持つ者だ。もし従わぬのなら、今夜のオペラ座は——』」

そこで、モンチャミンの声が途切れた。

「何だ、続きを読め」
リチャードが促すと、モンチャミンは顔を上げて言った。

「『もし従わぬのなら、ある秘密を公にすることになる。前支配人たちが隠していた、この劇場の恥ずべき過去を』だそうだ」

その言葉に、マダム・ジリーの表情がわずかに揺れた。リチャードは鼻で笑う。

「はっ、脅しか。前支配人の秘密など、我々には関係ない」
「いえ…」

ジリーが、珍しく強い口調で口を挟んだ。二人の支配人が驚いて彼女を見る。

「関係ないでは済まされません。もし、あの事が明るみに出れば…オペラ座の評判は地に落ちます」
「あの事とは?」

モンチャミンが尋ねると、ジリーは唇を噛んで俯いた。

「十年前、このオペラ座で、ある事故がありました。舞台装置の不備で、若い踊り子が、亡くなったのです…」

部屋の空気が張り詰めた。

「しかし、前支配人たちは、それを隠蔽しました。事故ではなく、病死として処理したのです。遺族には口止め料を渡し…」

「まさか」
リチャードの顔色が変わった。
「そんな醜聞が今になって…」

「怪人は、知っているのです。あの時、この劇場で何があったのか。そして…」

ジリーは震える声で続けた。

「亡くなった踊り子の名は、エリーズ・ダーエ。クリスティーヌの、実の姉でした」

その名を聞いた瞬間、支配人たちは息を呑んだ。

「クリスティーヌは、知っているのか?」

「いいえ。彼女は当時まだ幼く、姉が事故で亡くなったことも知りません。父親は、娘を守るために嘘をつき続けました。そして父も亡くなった今…真実を知る者は、もうほとんどいません」

モンチャミンは手紙を握りしめた。

「つまり、怪人はこの秘密を使って、我々を脅しているのか」

「それだけでは、ありません」

ジリーは、まるで何かに怯えるように声を落とした。

「怪人は…恐らく、エリーズの死に関わった者たちに、復讐をしようとしているのです。前支配人たちが相次いで不幸に見舞われたのも、偶然ではないかもしれません」

その時、廊下から足音が聞こえた。

三人が振り返ると、扉の隙間から、誰かがこちらを覗いている気配がした。しかし、姿を確認する前に、その人影はするりと闇の中へ消えていった。

マダム・ジリーは青ざめた顔で呟いた。

「…誰かに、聞かれてしまったかもしれません」
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